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2016年9月7日水曜日

【パヨクの動向】十和田市が「新渡戸稲造(お札の肖像画人物)記念館を」歴史から抹殺しようとしている。~市が永久に保存すると明記した建物に対し「廃館」を策謀[H28/9/6]

1: ■忍法帖【Lv=15,メイジキメラ,UJe】 第13艦隊◆IpxlQ2BXrcdb 2016/09/06(火)08:41:57 ID:??? 敷地は、もともと新渡戸家の私有地で、新渡戸傳、新渡戸十次郎、新渡戸稲造の親子三代の墓所のある土地です。 つまり簡単にいえば、新渡戸家の墓所の敷地内に、市が新渡戸記念館の建物を建てたのです。 この建設には、生田勉といって、東大名誉教授で、日本を代表する建築家が設計に携わり、 自然に囲まれた中にマッチする、美しい建物が建設されました。 そしてそのなかには、約8千点にのぼる、新渡戸家代々の記念展示物が保存されています。 ところが一昨年の年末から、いきなり十和田市は、この記念館を取り壊すと言ってきました。 当初、市は、その理由を「建物の耐震性に問題があるため」と述べていましたが、 この取り壊しを不服として新渡戸毛側が裁判を申し立てると、市は不思議不思議なことに、 なぜか耐震性のことはまったく触れずに建物収去だけを主張するようになりました。 しかも具体的な建物明け渡しに関しては、いまだに十和田市から新渡戸家に対して、 一遍の通達も、告知文書も出ていないのです。 でたのは、裁判が始まってから、一回だけ、建物明け渡しを求める内容証明が送られたのみです。 理由の説明もなければ、代替案としての、たとえば耐震補強をする、あるいは別途新たな 建物を建築する等の代案の提示すらもありません。 その一方で、十和田市は、市内に設置された新渡戸記念館の案内標識に書かれた「新渡戸記念館→」への露骨な 「塗りつぶし」を行い、さらに、裏の顔をつかって、御用新聞などに新渡戸記念館の悪口をかきたてされる等の嫌がらせ を行っています。 ところが、こうした一連の立ち退き要求について、さきほども書きましたが、 1 立ち退き要求の正式書面の交付 2 立ち退きに関する具体的な理由説明 3 立ち退き条件 4 保存物の保管に関する話し合い の一切を、ただ拒否しています。 ◎全文は下記からどうぞ(・ω・)ノ ねずさんのひとりごと http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3134.html...

2016年3月19日土曜日

【プロパガンダ/南京大虐殺】南京大虐殺があったというのが、中共を筆頭とする日本左翼の立場です。これに対して日本保守の立場は、なかったという立場です。[H28/3/19]

1: MEGATREND◆o8vqQW81IE 投稿日:2016/03/19(土)06:00:42 中共を筆頭とする日本の左翼の立場です。 これに対して日本の保守の立場は、そんなものはなかった、という立場です。 左翼からみたら、保守は、右にあります。 しかし、片方が「あった」としているものを、「なかった」というのは、相手の言っていることに対抗しているだけで、実は正確な発言ではありません。 国際法に従えば、交戦の際には次の4つの要件があります。  1、責任者の存在、  2、遠方から認識し得る特殊徽章、  3、公然と兵器を携帯すること  4、その行為に付き戦争の法規慣例を遵守すること このことが意味していることは、要するに交戦は軍人が行うものであって、交戦者はちゃんとそれとわかる服装をし、 それとわかる武器を公然と携行し、どこまでも戦禍が続かないように、 停戦交渉等の際の意思決定権者である責任者が存在し、その責任者は、 ちゃんと戦時国際法を守って戦わなければならないということが、これが国際法で規定された交戦のルールです。 ところが南京事件で実際に起きたことは、 1 国民党の責任者は、日本軍がやってきたらさっさと逃げてしまった。 2 国民党は、便衣兵であり、民間人の服装をしていた。 3 国民党の便衣兵が武器を隠し持ち、一般人に混じって日本兵を殺傷していた。 4 国民党は戦争に関する法慣例をまったく無視していた。 加えて彼らは国家ですらなく、平和だった南京に、武器を持って突然乱入した連中です。 つまり国際法上のテロリストです。 そのテロリストたちが南京の市民を虐殺し、民家を焼き払い、民間人に銃を突き付けて、日本軍との戦闘をさせていました。 これは明らかに不法集団です。 この不法集団を追い払うために日本軍が向かったのです。 すると国民党の代表である蒋介石も、国民党軍の指揮官である唐生智もさっさと逃げ出し、国民党軍は責任者不在の状況となりました。 その中で国民党兵は、一般人に混じり、便衣兵となって、その一部が南京城内に残って南京市民や日本兵に対する殺傷行為を図ろうとしました。(つづく) ◎全文は下記からどうぞ(・ω・)ノ http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2953.html#more 2:...

2016年3月14日月曜日

【日本国憲法】この憲法が制定された当時は独立国ではありません。「連合国占領統治領日本」です。つまり戦後政治は、日本国憲法という名の「占領統治服務規程」の枠内にある[H28/3/13]

1: 6564億円◆o8vqQW81IE 投稿日:2016/03/13(日)00:11:29 日本国憲法は、不道徳な憲法である、ということです。 そしてそのような不道徳を、いつまでも容認しているようでは、現代日本人は歴史に恥を晒していることになります。 おそらく後の世には、日本でも世界でも、日本が日本史上、もっとも程度の低くなった最低の時代として現代日本は認識されるのではないかと思います。 それくらい、日本国憲法は、むごいものです。それもあたりまえのことです。 そもそも日本国憲法は、憲法ではありません。 名称こそ日本国憲法となっていますが、この憲法が制定された当時の日本は、独立国としての日本国ではありません。「連合国占領統治領日本」です。 軍事占領下にあったのですから、当時の日本に、独立した国家としての主権も、独自の意思決定力もありません。 つまり、主体性がないということです。主体性がないなら、憲法も存在できません。 つまり日本国憲法というのは、名前こそ「憲法」だけれども、 実態は、 「占領下の日本人の占領統治服務規程」でしかないということです。 ですから「占領服務規程」と読めば、冒頭の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」も納得です。 「平和を愛する諸国民の公正と信義」というのは、「占領軍を信頼して」という意味です。 「国際社会において名誉ある地位」を得たい」というのは、占領統治下から一日も早く抜けだして、独立した主権を回復したいという意味です。 問題は、その「占領統治服務規程」の枠内に、いまだに日本はあるという点です。 行政も司法も、立法府も、すべてその「占領統治服務規程」の枠内にあります。 つまり戦後政治は、日本国憲法という名の「占領統治服務規程」の枠内にあるわけです。 ということは、司法、立法、行政の力では、いまのフレームは「変えられない」ということです。 なぜなら、フレームの枠内にあるものには、フレームそのものを変えることができないからです。 それができるのは、日本国民の力だけです。 つまり日本国民が成長し、変わり、国民の側がいまの憲法、つまり「占領統治服務規程」を乗り越えていかなければ、日本は変わらないし、日本を取り戻すことなどできない、ということです。 すべての鍵は、国民が握っているのです。 取り戻すべき日本の形は明白です。 天皇を中心とし、天皇を国家元首として、すべての日本の領土領民が天皇の「おおみたから」とし、その天皇によって親任された政治家が、おおみたからである臣民が豊かに生活できるように活動する。 そういう日本の上古の昔からある体制を取り戻すことです。 教育が変わらなければ、政治家が変わらなければというのは、私は、甘えであり依存であると思います。 そうではなく、私たち自身が変わることです。 幸い、「占領統治服務規程」も、言論の自由は認められています。 そして、何が正しいのかを判断できる教養と民度の高さを、日本人はちゃんと持っています。 ◎全文は下記からどうぞ(・ω・)ノ http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2946.html#more 3:...

2015年11月2日月曜日

【ねずさんのひとりごと】花王といえば、最近は在日支配とか反日タレントの広告起用とかで、保守の方の一部には不買運動などが広がっているそうです

1: 6564億円◆o8vqQW81IE 投稿日:2015/11/02(月)09:02:40 花王といえば、最近は在日支配とか反日タレントの広告起用とかで、保守の方の一部には不買運動などが広がっているそうです。 私は、昔から花王好きで、常に前向きに工夫した商品の開発をする花王の製品は、同じ商品を買うなら花王でと思っていたくらいです。 もし、乗っ取られ、社風が変わってしまっのだとしたなら、それはとても残念なことに思います。 昔から花王が好きだった原因の一つに、花王の創業者、長瀬富郎(ながせとみろう)の伝記があります。 小学校を出ただけで世間に出て働き、若くして支店長にまで大抜擢されるという才覚を見せながら、 そのために変に自尊心ができて失敗し、丸裸になってしまう。 その地獄から再び立ち上がり、人の和を築き、みずからも一生懸命勉強して国産高給石鹸という新しいジャンルを開拓する。 自分が儲かれば良いというのではなく、どうしたらより多くの人々に喜んでいただけるのか。 そのことを一途に追求した、血を吐くような努力と精進の人生が、花王の創業者長瀬富郎の創業精神です。 長瀬富郎は、過労のために48歳の若さでこの世を去りました。 けれど、その創業精神は受け継がれ、儲かっている会社を貶めて奪って横取りして経営者だけが利益を掠め取る会社とは まったく対局に位置する自立した企業として花王は、次々と創意工夫を重ねた新製品を世に送り出した会社だったのです。 文久3(1863)年、美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市)に生まれました。 12歳で小学校を卒業した富郎は、親戚の塩問屋兼荒物雑貨商「若松屋」に奉公に入りました。 相当努力したのでしょう。 なんと若干17歳で、もう、下呂支店を任されるまでに信頼されています。 若い時にこうして信頼され、支店長まで経験させられると、おかしなもので人間、ある種の自信過剰になってしまうものです。 富郎は、明治18(1885)年、23歳で店を辞めてしまいます。 辞めて何をしたかというと、それまでに貯めたお金150円を元手に、上京して米相場を貼ったのです。 いまなら、だいたい200万円くらいのお金です。 元手を増やして、商売でもやろうと思ったのでしょう。 ところがこれが、大失敗で、富郎は無一文になってしまうのです。 富郎が偉いところは、この失敗を教訓として、以後、とにかく 「堅実に生きる」 この一語を終生の誓いにし、それを守り通したことです。 ちなみに人は一般に「自分の成功と、他人の失敗からしか学ばない」のだそうで、 だから、たった一度の成功体験に縋ってギャンブルにのめり込んだりするのだそうです。 「明治の気骨」と言うのは、こういう「失敗から学べる」ことを言うのかもしれません。 金を失った富郎は、日本橋馬喰町の和洋小間物商「伊能商店」に就職します。 この頃の日本橋馬喰町は、舶来品の専門問屋街で、マッチ、靴、洋傘、帽子、コーヒーなどが、 ひかり輝くような高級輸入品として売られていました。 ◎全文は下記からどうぞ(・ω・)ノ ねずさんのひとりごと...

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